佐賀中学以前 =閑叟公による教育の刷新充実= 公(鍋島閑叟公1814-1871(明治4年)没 58歳)は人材を選ぶもといとして、まず第一に人間を作る教育を重んじ、藩校弘道館の刷新をはかりました。弘道館は公の祖父である佐賀藩中興の八代藩主治茂が、1782年(天明2年)城下松原小路に設立した藩校で、後に幕府の儒員になった古賀精里(穀堂の父)を校長格の教授、多久の儒者石井鶴山を教頭格の助教として発足し、設備もしだいにととのいましたが、公は天保10年に北堀端に移してさらに拡張し、後には温厚篤実、多芸多能の点では藩内第一の文化人であった多久の草場汎(イに凧)川を助教に任じ、和学・漢学・洋学にわたり、文武ともに教育方針を刷新、充実して蘭学をも合併し、1865年(慶応元年)には、米国宣教師フルベツキを教師に招き、大隈重信らを教導役として長崎に英語学校致遠館を設立しました。
維新前後に活躍した枝吉神陽、中野晴虎、副島種臣(たねおみ)、大隈重信、江藤新平、大木喬任(たかとう)、佐野常民、島義勇(よしたけ)、伊東玄朴、中牟田倉之助らをはじめ弘道館、致遠館出身の人材が続出し、維新当時の政府で佐賀出身の参議(大政に加わりあずかった高官)がもっとも多かったときもあって、学問、教育は佐賀が第一との定評があり、明治元年には、内大臣岩倉具視(ともみ、後の右大臣)が閑叟公に実子具綱(ともつな28歳)、具定(ともさだ18歳)、具経(ともつね16歳)および具儀(とものり)4人の教育をたのみ、京都からわざわざ佐賀弘道館に学ばせたことは、閑叟公の人格と弘道館の教育とが信頼されたためであると思われます。もとの佐賀中学校(今の佐賀高等学校)、勧興(かんこう)小学校は弘道館の後身です。
佐賀の七賢人
鍋島 直正 佐賀10代藩主、蝦夷開拓使長官 大隈 重信 総理大臣、早稲田大学創立者 副島 種臣 外務卿、書家としても著名 江藤 新平 司法卿、征韓党主 佐野 常民 農商務大臣、日本赤十字社創立者 島 義勇 秋田県権令、憂国党主 大木 喬任 文部卿、東京府大参事
「佐賀県の歴史」 文画堂、昭和31年1月1日発行、編集:松本 忠雄 より
沿革
1876年 (明治 9年) 佐賀変則中学校として開校 (藩校弘道館跡に設立) 1883年 (明治16年) 佐賀県佐賀中学校と改称 (6年修業) 1895年 (明治28年) 現在地に校舎新築移転 1901年 (明治34年) 佐賀県立佐賀中学校と改称 (5年修業)
佐賀県立佐賀高等女学校開校
私立成美高等女学校開校1920年 (大正 9年) 私立成美高等女学校佐賀市に移管し、
佐賀市立成美高等女学校と改称1945年 (昭和20年) 戦時特例として4年生の卒業生を出す 1948年 (昭和23年) 佐賀中学校を佐賀県立佐賀第一高等学校と改称 (3年修業)
佐賀高等女学校を佐賀県立佐賀第二高等学校と改称 (3年修業)
成美高等女学校を佐賀市立成美高等学校と改称 (3年修業)1949年 (昭和24年) 佐賀第一高等学校、佐賀第二高等学校、成美高等学校の
3校の統合がなり、佐賀高等学校となる。定時制及び通信制を併置する1957年 (昭和32年) 佐賀市上多布施町に北校舎を新築し第1学年1000名を収容
3学年合わせて3000名の生徒数となる1962年 (昭和37年) 佐賀高等学校分離決定 (佐賀西高、佐賀北高、佐賀東高) 1963年 (昭和38年) 佐賀西高等学校として分離(定時制併置、通信制は佐賀北へ移管)
1回生定員 477名 (9学級) 佐賀中学校からの伝統を継承する1965年 (昭和40年) 3回生定員 530名 (10学級) 全校生徒数 1,530名 1973年 (昭和48年) 校地内に新校舎建設始まる 1976年 (昭和51年) 創立100周年記念式典を挙行する 1995年 (平成8年) 34回生定員 360名 (9学級) 全校生徒数 1,126名
定時制課程を閉じる、卒業生合計 2,770人(全・定卒業生総数60,296人)
創立120周年記念式典を挙行する 佐賀西高校ホームページ 「沿革」 より
佐高一回生 =プロローグ(序章)= この「青春の絆」は、昭和25年3月県立佐賀高校を卒業した一回生508名の足跡を同窓会活動を中心に記録したものである。彼等は世界中を巻き込んだ第二次世界大戦末期の昭和19年4月 旧制県立佐賀中学、佐賀高等女学校、市立成美高等女学校に入学した。
幸い大規模な戦災に会わなかった佐賀には、焼夷弾が雨・あられと降る中を命からがら逃げ回り、リュックサック一つで親戚や知り合いを頼って疎開してきた者、海外で親が長年かけて築き上げた地位も財産も全部なくして、体一つで帰国してきた者達がいた。
中には父親がシベリアに抑留されていたり、軍関係で生死不明な者、明日からどう生きていくか覚束無い者もいたが、それでも子供の教育だけはと親が考えて佐中に転入する者が続々とやってきた。
陸軍幼年学校からの復学者、一級上からの学年には海軍甲種飛行予科練習生やこの年新設された海軍兵学校予科などの復員者もいた。佐高女、成美も多数の転入生を迎えた
「ここは天下の佐中だから転入希望者が多い、いまは定員一杯だからしばらく自宅待機して欲しい」と言われた者もいた。
また、転入生は当時の渡部善次校長の方針により、戦中・戦後の混乱でろくに勉強していないのだから、転入する時一級下の学年を低級志願するように言われた。
日本が連合軍に降伏した昭和20(1945)年8月15日、彼等は敗戦後の混乱と、昨日まで正しいと信じていたことを全部否定される体験をした。
また彼等は日本が連合国から受諾したポッダム宣言『日本兵士の武装解除と平和生産への復帰、戦争犯罪人の処罰と民主主義の復活強化、平和産業の復興と世界貿易への復帰、以上の目的を達成し、かつ責任ある日本政府が樹立されるまで連合国軍が日本占領を続けること』の全部を一市民として十分過ぎるほど体験した。
「全体の利益を第一とし、個人の価値は全体に奉仕」する点でだけ認められていた全体主義国家日本から、急激に「国民が主権を持ち、自らの手で、自らのために政治を行い、国民が自らの自由と平等を保証する民主主義」への転換を連合国軍の占領下に実施され、彼等の教育にも大きな変革があった。
昭和23年4月新しい学校制度が実施され、佐中は佐賀一高に、佐高女は佐賀ニ高に、成美女は成美高にそれぞれ学校名と内容が変わった。
そして彼等が高校2年の終わりにこの3校がGHQ(連合国軍総合司令部)の指令と米軍民間教育課長フランク・J・バーツ氏の強い意向もあったと言われているが、男女共学の県立佐賀高校に統合された。彼等の母校は入学以来三度校名が変わったのである。
男女7歳にして席を同じゅうせずという儒教の影響の強い教育はここに終わりを告げた。佐高女の父兄の中には統合反対の意見も強かったという。
彼等は昭和25年3月佐高を卒業し、進学や就職など全国に散らばっていった。
「青春の絆」県立佐賀高校一回生508人の記念誌 編集:末次 令二郎 より戻る